第十六話「恋・故意・来い」
「お願いだよ、玄さん、安さん・・・。俺一人じゃ無理なんだって」
オリバーは顔の前に手を合わせ、一杯飲み屋の「いつもここから(いつ・ここ)」のカウン
ターで、キッチンで作業中の玄と安に懇願していた。
「行ってやりたいのはヤマヤマだけど、俺達店あるんだよ、その時間・・・」
安は夕方から開く店の仕込みの最中だ。
メニューにある「焼き鳥」の準備で、慣れた手付きで串に鶏肉を刺している。
「遅れて来てもいい・・・少しの間だけでいいんだ。俺をあの店に一人にしないでよ・・・」
オリバーは先ほどから泣き言だ。
「甘ったれるな。別にお前『一人』って訳じゃないだろ?店の『ネエチャン達』が居るし
、客だって何人か呼ばれてるはずだ。『朱実さん』たっての願いだ・・・男なら聞き入れ
てやれよ」
玄は口にタバコを咥えながら、野菜の皮剥きだ。
派手好みのイデタチの安とは違い、玄の方は渋めのファッションだ。
少しニヒルで、「ルパン三世の次元大輔」を思わせる風貌だ。
「あそこの『ネエチャン』は全員『ニイチャン』じゃないか!?!しかも、俺よりみんな
『オッサン』だ!大体、『朱実さん』って本当は幾つなの?」
「俺達もお前からすれば、充分オッサンだぞ?それに、朱実さんの歳はカードに『二十歳
のバースデー』って書いてあったって・・・お前さっき自分で言ってたじゃないか?」
安のその言葉に玄が笑った。
「俺、誰かに朱実さんが去年も『二十歳を祝った』って聞いたんだ」
オリバーがブツブツ言った。
「いいじゃないか、何度『二十歳』を祝ったって。女とはそういうモンさ。ま、安心しろ
よ・・・充分『まとも』だよ、あの人。ちゃんと『カタギ』でメシ食ってる。『彼女』の
歳には拘るな・・・『女性』はその辺、色々気にするモンさ」
「『オカマ』だろ、あの人!?」
オリバーはカウンターに突っ伏した。
「偏見は止せよ、オリバー。人間は中身だ。あの人は、ある意味その辺の女共よりよっぽ
ど女性らしいし、人間的にもなかなか魅力があると思うぞ?」
玄は野菜の皮剥きを終え、流しに置いて一つずつ洗い始めた。
どうやら、お通しの「ポテトサラダ」を作ろうと言うらしい。
「レインボー」のポテトサラダも美味いが、オリバーは「いつ・ここ」のポテトサラダも
好きだった。
隠し味に味噌が入っており、きゅうりの変わりにインゲンが刻んで入っている。
「『朱実さんの人間性』なんてこの際どうだっていいんだ。あの人の魅力なんか俺、どう
だっていいんだよ。『オカマ』は所詮オカマだ。俺、とにかく男はダメだ・・・」
「硬いなぁ〜・・・お前」
「何とでも言えばいいよ・・・」
オリバーはずっとグダグダと文句ばかりだ。
彼が「兄」と慕う安と玄の二人は双子で居酒屋を切り盛りしており、オリバーにとって地
元商店街の中でも特に大好きで頼れる存在だ。
二人は生真面目なオリバーより色々と物事をユルく捉える所があり、それがオリバーにと
って「器が大きく、存在が大きく」感じる所でもある。
「おい、大変だ!」
突然店に和菓子屋の「ミキ」が入って来た。
「大和幹弘」は、和菓子屋「やまと屋」の婿養子として跡取りに入った男だ。
早く地元に馴染むようにと、二年前から若手青年部の部長を引き受けていた。
「どうした、ミキ?」
玄が入り口で慌てているミキに聞いた。
「杉造じいさん・・・死んじまったって」
「えっ!?」
オリバー含め、三人が大きな声を上げた。
「杉造じいさんの息子さんが町会長に連絡して来たって。今朝病院で息を引き取ったらし
いよ」
「『杉じい』が・・・」
安の現実を受け止める重い口調にに、オリバーも玄も神妙な顔付きになった。
「杉造」事「大谷杉造」とは、元は池照家のすぐ裏に住んでいた「庭師」をしていた爺さ
んだ。
若い頃庭師の師匠の元で修行を積んで地元に戻り、界隈は本(もと)より山手にも沢山の顧
客を持っていた庭師だった。
しかし歳を取り、半分強引に会社員をしている息子夫婦の家に隠居させられ、気が沈んだ
せいかそれからすぐ体を壊し、二年ばかり病院生活を送っていた。
横浜の病院に、オリバーは弟のジェームズと二度ほど見舞いに行った事がある。
池照家の庭を、両親の時代から手を入れしていたのが杉造だった。
(今はオリバーとジェームズが、見よう見真似で手入れをしたり、家庭菜園に変えてい
たが・・・)
「葬儀は明日らしいよ。葬式に行くメンバーは夕方纏まって町会長が駅から連れてくって
・・・」
「そうか・・・わざわざ知らせてくれてありがとうな、ミキ」
「いや・・・じゃ、俺他も知らせなくちゃイケナイから、また・・・」
「お宅のご隠居さんは元気なんだろ〜?」
安が少し大きな声を出して、外に出てしまったミキを呼び止めた。
「まぁね!うちの爺ちゃんはゲートボール始めて、前よりピンピンしてるよ。当分先に逝
った婆ちゃんは迎えに来ないと思うね。あはは♪」
ミキの姿が見えなくなった。
「・・・じいさん死んだか。俺らはあの人に世話になったからな・・・明日は店休んで行
く事になるだろうな、玄?お前はどうする、オリバー?」
安が聞いた。
「勿論行くよ。うちの場合は、早終いすれば済む事だし・・・」
「なぁ、『杉じい』がお前を助けたんじゃないのか?明日、『朱実の誕生会』にお前が出
るの嫌がってたから・・・」
「・・・・・」
玄のセリフにオリバーは何か言おうとしたが結局言葉が出ず、感慨深げな顔付きで「いつ
・ここ」を後にした。
「コラァ〜ッ、ボウズ!『俺の芸術』の上から降りやがれぃ!このクソガキがぁ!」
杉造が昔良く、やんちゃだったジェームズやトムを怒鳴っていた事を思い出したオリバー。
一日一回は、どこからか彼の怒鳴り声が聞こえた。
当時の子供達は、みんなそんな杉造の事を怖がっていたものだ。
人の家の子供だろうが何だろうが、社会のルールに反する行いをするとゲンコツまで落と
して叱る怖い爺さんだった。
しかし大人になると「見方」が変わった。
情に厚く男気があり、町内会の男衆は何をするにも杉造を頼りにしていた。
町会長に苦言出来るのは杉造くらいのものだった。
その杉造が死んだ・・・一つの時代がここに終わったのだ。
両親の思い出話を出来る人間が、これでまた一人減ってしまった。
オリバーは何とも言い知れぬ寂しさを感じた。
「わぁ〜ん・・・ダンの馬鹿馬鹿馬鹿ぁ〜っ!」
帰った途端、家の中はうるさい・・・。
感慨深く帰って来たオリバーは、いきなり「現実の世界」に引き戻された。
細い廊下を、ルパートがバタバタとダニエルを追い駆けて行く。
オリバーはイライラした。
「ルパートが悪いんだよぉ!知らなかったんだモン、僕」
ダニエルはすばしっこかった。
スルリとルパートを交わし、捕まらないように逃げ回っている。
大方、ダニエルがルパートのおやつか何かを食べてしまったのだろう。
大概のケンカはこの程度が原因だ。
「ダンが意地悪したぁ!ダンが悪ぅ〜い!ダンはいつも意地悪だ!」
「僕は『いつも』悪くなんかないよ!ルパートの方がずっと意地悪だろ!?最近お風
呂も一緒に入ってくれないし、チューも全然させてくれないし」
「違うよぉ!だってダンが・・・いでっ!」
ルパートがオカシな声を出した。
ダニエルも「っ〜・・・」と頭を押さえている。
オリバーのゲンコツが、ダニエルとルパートのつむじの上にゴツンと落ちたのだ。
「喧しい!『変態兄弟』を大きな声でアピールするな!人様に聞かれたら・・・ケン
カは何が原因だ!?」
オリバーは左右の手でそれぞれダニエルとルパートの首根っこを捕まえて、ケンカの理由
を聞いた。
二人は床にギリギリ足が付く状態で、バタバタ暴れている。
「ダンが僕の『忍者セット』を盗んで学校に持ってっちゃったんだよぉ!」
早速ルパートがオリバーにチクッた。
オリバーは色々ガックリだ・・・結局「この程度」のケンカなのだ、自分の弟達は。
春にはダニエルは高校生、ルパートは高校三年生にもなるのに・・・「この程度」だ。
「『忍者セット』!?」
オリバーが首を傾げた。
「そんなオモチャ、家にあったか?」
オリバーは押入れの中の「オモチャ箱」の記憶を辿った。
「知らなかったんだよ!普通の黒い布だったから・・・家庭科で使いたかったんだ!盗ん
だなんて、そんな人聞きの悪い事言わないで欲しいよ!」
ダニエルはオリバーに襟の後ろを持ち上げられながらも、自分の正当性を述べている。
「僕の『忍者道具』だって何で分かんなかったんだよぉ!んもぅ、馬鹿さんっ!」
「あっ!それ、いつもルパートが言ってるぞ!『馬鹿って言った方が馬鹿』なんだろ!?
大体、ルパートは忍者なんかじゃないモン!?『でんぐり返り』しか出来ないような奴は
忍者じゃないよ!」
「うわぁ〜ん!!僕は馬鹿じゃないモ〜ン!それに、今忍者になる修行中なんだモン
!」
ルパートがメソメソし始めた。(注、十七歳)
「大体ルパートは、『オーロラ5★』のメンバーだろ!?忍者になるんだったら、じゃあ
誰かに『オーロラピンク』を譲っちゃってもいいんだね?!」
「ヤダよーだ!うわぁ〜ん・・・やっぱダンは意地悪だぁ!ね?オリバー・・・ね?
」
ルパートは自分を泣かせた弟を指差して、長男に助けを求めている。
「あーっ、うるっせーっ!俺に言わせりゃ、お前らは揃いも揃って大馬鹿だ!」
「酷いぞ、オリバー!僕は馬鹿じゃない!馬鹿はルパートだけだ!」
「うわ〜ん!ダンがぁ〜・・・ダンが僕の事、また『馬鹿』って言ったぁ!!ねぇ、
オリバ〜!!ダンがぁ〜!!」
オリバーは弟達から手を離して、目をギュッと瞑って耳を塞いだ。
自分が余計な事を聞いた為、二人が益々うるさくなってしまった。
「あ〜・・・所でお前達、期末テストがそろそろ返って来てるはずだよな?どうして俺に
見せない?」
オリバーは話題を変えた。
ルパートとダニエルは「期末テスト」と言うキーワードを聞くと、ハタッと目を合わせて
静かになり、タタタターッとオリバーから逃げるように階段を上ってしまった。
「おいっ!シカトすんな!コラッ!」
オリバーが階段の上を見上げながら怒鳴った。
「テスト見せろ!おいっ!さてはお前達・・・」
「おかえりですぅ、オリバーさ〜ん。ええと、さっき〜・・・」
めぐみが乾いた洗濯モノを大量に抱えながら後ろからヌッと現れた。
「『杉造じいさん』の事だろ?うん、ミキさんから聞いたよ」
「え?違いますぅ〜。朱実さんが〜『プレゼントとか特に気にしないから、お気遣い無く
』って〜。『アタシのプレゼントはア・ナ・タ♪』って言ってましたよ〜」
「・・・あ、そ」
「朱実のトーン」を真似しためぐみ・・・ちょっと不気味だった。
朱実に「行けなくなった」と言いに行っても良かったのだが、ドタキャンする事に決めた
オリバー。
「見たくも無い顔は一回でも見ない!」と決断した為だ。
そして、次の日の夕方五時・・・。
「巣鴨駅」から、総勢三十人のメンバーが黒い式服を着て山手線に乗った。
二つ先の「田端駅」から京浜東北線に乗り換え、そこから一気に横浜に向かう。
横浜駅に着くと、すぐに「葬儀会場はこちら」の看板が立っていた。
斎場は割りと近かった。
入り口の受付で記帳を済ませ、町会組一向はゾロゾロと中に入った。
「少ないね、意外と・・・」
集まった人々の少なさに町会長が少し驚いていた。
「杉造さん、こっち(横浜)来てからすぐ体壊して入院しちまってたからねぇ。知り合いら
しい知り合いはいなかったんだろうね」
誰かが答えた。
祭壇に並んだ花も札の数も、以前の杉造ならこんな量ではなかったはずだ。
数年の月日が、こうも大谷杉造のこれまでの生き方や在り方を軽んじてしまっていたのだ
ろうか?
オリバーはどこかで聞いた話を思い出した。
「新聞に交通事故で死んだ息子の記事が載った。だが、たった一行だ。あいつの一生は、
たった一行の人生だった」と・・・。
人の一生なんて・・・結局はその程度の最期を迎えるのだろうか・・・。
何だか人生の遣る瀬無さと儚(はかな)さを感じたオリバーだ。
親族席に座った杉造の息子夫婦は涙一つ見せない淡々としたやり方で、列席者に頭を下げ
ていた。
式服に身を包んだオリバーは焼香をする為の列に並び、祭壇の杉造に目をやった。
「ありゃあ・・・俺達が知っている杉造さんじゃねぇよな・・・」
列に並んでいた誰かが呟いた。
病院で入院中に急遽撮られたような、随分弱った時期の故人の写真が祭壇に飾られている。
「随分痩せちまってなぁ、気の毒に・・・。最後の病名は何だったって?」
また誰かがそう喋った。
オリバーはそんな事は今どうでも良かった。
ここは杉造の葬儀の席・・・そんな下世話はどうだっていい事だ。
オリバーは昔の事を思い出していた。
自分の両親が亡くなった時の記憶だ。
両親の死の知らせを聞かされた時、オリバーはまだ中学生だった。
悲しさより、残された弟達をどうしようかと必死だった。
そんな中でテレビの取材やカメラが入り、警察に色々状況を聞かれたり・・・散々だった。
そんな折、杉造がそういう輩を叱ってくれた事があった。
「アンタら!この子達の事を少しは考えたらどうなんだ!え!?見せモンじゃねー
ぞ!」
オリバーはこの時、涙が出そうになった。
普段は口少なく職人気質な杉造が、誰よりもオリバーの心の代弁者だった。
研究員の父親が研究所で母親と変死した後、家族と言えども兄弟達の誰も両親の顔を見る
事は許されなかった。
色々な理由を付けられて、遺体はすぐに警察の管理下に置かれてしまった。
遺体が返って来た時も、「損傷が激しいので、包帯は取らない方がいいでしょう」と言う
事から、子供達は両親の顔を見ずに墓に埋めた。
両親の死を実感する事無く、家の中から突如二人の姿が居なくなってしまったと言うのが
、当時のオリバーの心情だ。
両親の葬儀は特にしなかった。
下の二人の弟達は、未だ「いつか帰って来るかも知れない父と母」を心待ちにしているし
、トムにしたって、現在だって両親の死を真からは認めていない。
何かあった場合「ヴォルデモート理事長に全てを任せる」と言うメモの元、彼が葬式を挙
げる事を取り止めたと言う事もあるが・・・。
少しばかり、当時の記憶はあやふやになっている。
そのくらい色々な事が僅かな期間に池照家の兄弟達に降り掛かり、全ての事を細かに覚え
ていられるほど中学生のオリバーは強くなかった。
こんな事もあった。
ある日、杉造は家主の居なくなってしまった池照家の庭を弄りながら、たまたま学校から
帰って来ていたオリバーにこう言った。
「亡くなったって言われているお前の両親・・・ありゃあ、俺が思うに全くの別人かも知
れねぇぜ?俺にはどういう事かわからねぇが、ひょっとして何か事件に巻き込まれたんじ
ゃねぇのかな・・・。とにかく、色々とオカシな事が多過ぎらぁ。あの理事長には気を付
けた方がいいかもな。ありゃあ・・・カタギの面じゃあねぇぜ?」
父親アーサーは「何かの研究」に没頭してその成果があった・・・母からそれだけは聞いた。
しかしその末、命が危険に晒されたり薬品が狙われたりしていた事も聞いている。
母は時々研究所と家を行き来し、夫の洗濯物や身の回りの世話をしていた。
そしてある日、研究所の父親を訪ねた母親は二人で・・・。
「おい、三列に並べとさ」
玄がオリバーを小突いた。
オリバーは焼香の匂いと線香の匂いとこの場の雰囲気で、ちょっとオカシな気分になって
いた。
玄の声で、意識が現実に戻った。
「俺、『杉じい』にはホント、人の倍は怒られたなぁ・・・。学生の時、ちょっと悪いヤ
ツ等とつるんだ事があってさ・・・隠れてタバコ吸ってたら、道端まで引っ張り出されて
張り手されて・・・」
玄の話にオリバーが驚いた。
あまりに「杉造らしい」エピソードでもある。
「俺もさ。俺達はまぁ・・・若い頃はそこそこ悪い事も一杯して来て・・・。その要所要
所の記憶を辿ると、どこでも『杉じい』が居るんだ。親父とお袋は、当時の俺らをビビッ
てて何も言わなかったからな。あの爺さんがあの頃の俺らの親みたいなモンだった。『成
人』して挨拶行った時は『景気付けだ!』って言って蹴り入れられたし、『店』出した時
は遅い時間に現れて、とにかく黙って朝まで飲んでくれた。最後に『しっかりやれよ』っ
て言ってくれてな・・・」
「あぁ、すげぇ爺ぃだった・・・」
玄と安は、遺影を見つめながら少し悲しい笑顔だった。
オリバーは自分達兄弟が一番あの爺さんに色々言われたりされたりしていたと思っていた
が、上には上が居るものだと驚いた。
確かに玄と安の二人は、界隈の人間が避けて通るような「危険な時期」があった。
ただ、昔から兄と慕っていたオリバーやジェームズにはそんなに変わる事の無い態度だっ
たし、同じ双子同士と言う事で結構仲良くして貰っていたが・・・。
玄と安は、母モリーが経営していた「喫茶レインボー」のポテトサラダが好きだった。
思えば・・・「いつ・ここ」のポテトサラダの原点は「レインボー」かも知れない。
オリバーと玄と安は淡々と焼香を済ませ、故人を偲び、隣の部屋に用意された酒や寿司を
少しだけ胃に入れると、他の町会の人より先に電車に乗った。
他の人間と交じって、あそこで色々杉造の話をする気には何となくなれなかったからだ。
中には杉造の事を悪く言う人間も居るし、そういうのを今だけは聞きたくなかったからで
もある。
「『梅さん』が来てたな・・・」
「あぁ」
「『梅さん』って?」
帰りの電車に揺られながら、オリバーが二人に聞いた。
「杉じいの永遠の想い人」
「え?」
オリバーが驚くので、玄と安は少し笑った。
「語るも涙、聞くも涙の『悲恋』だったって話さ。前に、酔った爺さんに聞いた事がある
。杉じいと梅さんは幼馴染で、古い言い方をすれば、梅さんは杉じいの学生当時の『マド
ンナ』的存在だったらしい」
オリバーは一瞬、耳元でルパートが騒ぐ声が聞こえるような気がした。
「え、『マドンナ』?『マドンナ』」どこ!?僕、サイン貰う!」
勿論空耳だ。
「杉じいがガキの頃はほら・・・今みたいな世の中じゃなかったから、恋愛事情が・・・
な?で、幾ら梅さんの事を好きでも杉じいは声も掛けられなかったみたいだ。が、残念・
・・後々聞くトコによると、梅さんも実は杉じいの事が好きだったみたいでさ・・・。は
は・・・爺さんそれを俺達にしきりに自慢してたっけな。でも当時、年頃になると梅さん
は銀行員のエリートと良縁が決まって結婚しちまってさ・・・どこぞの奥様になられたん
だと」
「で、その家にはどデカイ庭があってな・・・そこに出入りしていたのが、たまたま杉じ
いの師匠で、その人が引退するとそのまま爺さんがその仕事の跡を継いだ」
玄が安の後を引き継いだ。
玄はそろそろタバコが吸いたくなって来ているのか、足をしきりに貧乏揺すりし始めている。
「・・・杉造さん、その時結婚は?」
「もうしてた。でも、戦争になって梅さんのご主人は満州で亡くなり、梅さんは長い間未
亡人だったみたいだ。落ち込んだ梅さんの庭を弄りながら、杉じいは何年も『古き良き友
達』として過ごして来た。やがて杉じいの奥さんも病で倒れて早くに亡くなって・・・」
「でも、まさかそんなに長い時間が経っても二人は・・・」
オリバーは少し笑いながら聞いた。
「ず〜っと好きだったのさ、相手の事が」
「だから言っただろ?『悲恋』だって」
「・・・・・」
オリバーは愕然とした。
そんな事が本当にあるものだろうか・・・知り合って、五十年も片想いなんて・・・。
「ドラマみたい」だとオリバーは思った。
「杉造さん、梅さんに結婚を申し込めば良かったのに・・・。そしたら、少しの間は一緒
に住めて・・・」
「そうしなかったのが、ある意味二人の美徳だな。杉じいと梅さんは多分、互いに自分の
連れ添った相手に罪の意識があったんじゃないのかと俺は思う。それぞれ『想い人』が別
に居るのに、旦那が居たり女房が居たりしたから、ずっと妻や旦那に後ろめたさを感じて
いたんじゃないかって・・・」
「でも・・・」
オリバーは腑に落ちない。
「葬式で梅さんと話している人の話がチラッと聞こえたけど・・・ありゃ多分、杉じいの
担当の看護婦か何かだな・・・。爺さん、亡くなる二日前に見舞いに来た梅さんに『もう
一度お宅の庭を自分の手で弄りたい』って言ってたって。そしてら梅さん、『自分もどこ
かでその奇跡を願っていた』って言ったんだと。綺麗な婆さんだったな、梅さん。俺、あ
んなに綺麗な婆さん初めてだ・・・。昔はさぞかし美人だったろうな。爺さんの気持ち少
し分かる」
安が梅さんを思い出していた。
三人はいつの間にか、「西日暮里」まで帰って来ていた。
「オリバー・・・まだ時間は早い。このまま付き合うからさ・・・『朱実のバースデー』
に行かないか?」
「えぇっ!?」
オリバーはクリアしていた問題をここに来て提示され、また慌てた。
「俺達も行くからさ・・・な?」
「ん〜〜・・・・」
オリバーは気が向かなかったが、玄と安には逆らえない・・・昔からそうだ。
「分かったよ・・・」
「巣鴨」に着くのが、気が重くなったオリバー。
それに、「杉造と梅の感動話話は、絶対に自分と朱実には当てはまらないぞ!?」と二人
にツッコミたかったのも現実であった。
「いらっしゃぁ〜〜〜い♪」
店に入った途端、独特の鼻から抜けるダミ声とケバケバしい化粧の「オネエサン」達に迎
えられた三人。
「大変だったわねぇ〜。さっき家に電話したら、めぐみちゃんに『お葬式に行った』って
聞いて・・・今、その帰り?」
朱実は今日の主役とあってか、いつも以上のケバさでハイテンションだった。
頭に小さな王冠を付けているのだが、彼女は顔が・・・いや、頭が少し大きいので王冠が
本当に小さく見える。
「悪いね、朱実さん。折角の誕生日だって言うのに、湿っぽい格好で現れちゃって・・・」
安が謝った。
「ううん!来てくれただけで嬉しいわぁ〜。ま、とにかく上着は脱いでネクタイ取って。
あ、そこ座って!ヒロミちゃぁ〜〜ん?三人にまず、おビール差し上げてぇ〜♪」
早速三人への接客が始まった。
「朱実さん『主役』なんだから、ここにずっと居るとマズイんじゃないですか?ほら、他
のお客さん達も居るし、俺達のトコばかりじゃ悪いですから・・・」
オリバーは腰を下ろした途端、ベッタリ張り付いて来た朱実から逃げるようにギコチない
笑顔を返した。
「いいの、いいの!み〜んな『あたし達の仲』の事は知ってるしぃ〜♪そうよね〜?」
辺りからは「ヨッ!」とか「憎いよ、オニイチャン!」とか、オリバーと朱実を囃し立
てる声が上がる。
「・・・どんな『仲』だよ」
オリバーはもう帰りたかった。
やはり、玄と安に何と言われようが来るべきではなかった。
ビールが用意され、朱実が各々に注いだ。
「は〜い・・・じゃ、まずはカンパイしましょ?あ、今日は三人、『カンパイ』じゃマズ
イわね?え、と・・・こういう時は故人を偲んで『ケンパイ』って言うのよね?」
朱実が気を遣った。
「杉じいは酒が好きな爺さんだったし、俺達はあの爺さんに気に入られてた。ここではあ
の人の事は置いておいても怒ったりしないだろ?焼香は済ませて来たし・・・朱実さんの
『二十歳』をちゃんと祝わないとね♪」
安がウインクした。
「んもぅ、安さぁ〜ん・・・ダメよぉ、アタシにモーション掛けたってぇ。アタシには『
オリバー』って言う素敵な人が居るんだから〜♪ウフ♪」
朱実は益々オリバーの肩に寄り掛かって来る。
オリバー・・・もう、言葉が無い。
色々と朱実を呪ってやりたい所だが、残念な事にここは「朱実のテリトリー」・・・。
オリバーは分が悪かった。
「じゃ、とにかく・・・朱実さん、誕生日おめでとう!」
安が音頭を取って、四人はカンパイした。
オリバーはチビチビ飲んだ。
「嫌だぁ〜・・・そんなしみったれた飲み方・・・。グーッと空けちゃってよ、グーッ
と!ほら!」
側を通ったヒロミにせっ付かれ、オリバーは半ば自棄になってグラスを空けた。
「素っ敵ぃ〜、その飲みっぷり!惚れ直しちゃうわ〜♪はい、ドンドン飲んでね♪」
朱実がまたオリバーのグラスにビールを注ぐ。
「お祝いの花が一杯届いているね、朱実さん?」
玄が店内をグルリと見渡した。
「でしょー?『ママ』のおかげよ、ホント・・・。今のアタシがこうして居るのは、み〜
んな『孝夫ママ』のお・か・げ♪」
カウンターでアジアンスタイルのシースルーのガウンを着て、常連客を相手している少し
ヒゲ面の「孝夫ママ」がそこに居た。
「ママ」はオリバーの視線に気付き、「うふん♪」と投げキッスしてきた。
オリバーはウッと口元を押さえ、目を背けた。
(色々、かなり失礼なオリバーだ)
ツマミがガンガンオリバーの前に用意されてきた。
凄い「もてなし」である。
他のテーブルと思いっきり「差」が付いていた。
どれだけ朱実がオリバーを特別視しているかが、一目瞭然である。
「今日はアタシの奢りだから、沢山飲んで沢山食べて沢山楽しんで帰ってね♪まだ夜は長
いわよぉ〜♪ほらぁ、誰か歌ったらぁ〜?」
オリバーはもう、こうなったら飲むしかないと思った。
シラフで居たら、気が変になりそうだった。
「朱実さん・・・俺ビールもういいから、何か強い酒頂戴!」
オリバーは強い酒を注文した。
「任せて!ヒロミちゃ〜ん!ありったけの強いのガンガン持って来て頂戴〜♪」
朱実が手をパンパンと叩いて、ヒロミに指図した。
ヒロミは向こうの方から親指をグッと立ててそれに応えた。
「おい・・・大丈夫か、オリバー?」
安が心配そうにオリバーの体を支えた。
オリバーはクラゲみたいにフラフラしながらトイレから帰って来た所だ。
「だいじょーび!俺はまだ全然だいじょーびよ!」
・・・全然「だいじょーび」じゃないオリバーだ。
呂律がかなりオカシイ。
あれから三時間後、相当量の酒を煽(あお)ったオリバーは、席に戻るトコでコケたりして
いる。
玄と安は、オリバーがそうなる前に止めてやれなかった自分達を少し反省していた。
「そうねぇ〜・・・ちょっとマズイわね。もうやめておいた方がいいわ」
朱実も流石にマズイと思ったのか、不安そうにオリバーの顔を覗き込んだ。
「俺ぁ、まだ飲むどぉー!飲み足りねぇどー!」
オリバーはウイスキーを自分のグラスにドボドボ注いで、テーブルにも景気良く酒を溢し
ていた。
「おい・・・ホント、もうやめとけって。ほら、帰るぞ!」
安がオリバーの脇に手を入れて、立たせようとした。
「俺はまだ飲むんだぁ〜。朱実さんの誕生祝いに『ドンペリ』空けちゃって!『
ドンペリ』・・・う〜・・・」
オリバーはグラスに口を付けて、ジュルジュルルとウイスキーを啜(すす)った。
「オリバー・・・ほら、もう立て!」
玄も逆側からオリバーの体を持ち上げた。
二人の方がオリバーより少し身長が低いので、色々難儀している。
「タクシー呼ぼうか?」
ママが助け舟に入った。
「うん、そうして貰える、ママ?」
朱実が応じた。
「大丈夫だよ、朱実さん、ママさん・・・。俺達で家まで連れて帰れるから。すぐそこだ
し。え、と・・・お勘定して」
「いいのよ、今日はアタシの奢りだって言ったでしょ?アタアシが強引に呼んだんだから」
「そうは行かないよ・・・誕生日プレゼントも持って来ないで飲み食いしちまったんだ。
ちゃんと『取るものは取って』貰わないと・・・」
玄が支払いをしている隙に、安はオリバーと外まで出た。
二月の後半・・・まだ夜風は冷たかったが、飲んだ後には気持ちのいい心地良さだ。
「ほら・・・しっかり立てって・・・」
安はグタングタンのオリバーに難儀していた。
「ほら、がんばれ・・・お前の図体は俺一人じゃキツイんだから・・・。ったく、こんな
にデカくなりやがって・・・。まぁ、コイツの親父さんがデカイ人だったからな」
「お〜い、安!」
店から玄が呼んだ。
「確か『カード』あっただろ、お前・・・」
「・・・足りないのかよ?ダッセーな・・・ちょっと待て、今行く。おい、オリバー、ち
ょっとここで一人でガンバッテろ・・・な?よし・・・」
フラフラのオリバーを一人置いて、安も店の中に入って行った。
「うぉ〜・・・世界が回る・・・」
オリバーは夜空を見上げた。
思考が全て遮断されていたが、綺麗な満月だけは見て取れた。
据わった目で今度は界隈を見た。
この辺りはスナックやバーや・・・そんなのばかりが集まっている一角だ。
オリバーはフラフラしながら、何とか玄と安を待っていた。
ドンッ!
オリバーが誰かとぶつかった。
「ってーな・・・」
剃り込みを入れた目付きの悪い二人の男達が、ヨタヨタしながら首を斜めにしてオリバーに
近付いて来た。
「てめぇ〜・・・人にぶつかっておきながら謝りも無しかよ・・・あぁっ!?」
「・・・アンタらの方がぶつかって来たんだろ?」
オリバーは目を擦りながらノロノロと答えた。
「俺達の方が悪いって言うのかよ?こるぁ〜っ!」
オリバーの顔を下からジロジロと不躾に覗き込んでくる男。
「・・・うるせぇな・・・聞こえてるよ。ってか・・・アンタ、タバコ臭ぇ」
オリバーは耳障りな二人組をシッシッとした。
「何だぁ、その態度はぁ!?お前ぇも相当酒臭ぇぞ、こるぁっ!」
一方の男が胸倉を掴んで来た。
オリバーより身長は低かったが、凄みのある目付きでオリバーを下から威嚇してきた。
「俺達が『どこのモン』か知っててイチャモン付けてんだろうな・・・あぁ!?」
「知らねーよ、アンタ等なんか・・・『ポケモン』か何かか?ははは♪」
オリバーは自分で自分の言ったセリフにウケて笑い始めた。
酔っているので、どうも普段より馬鹿げたジョークを言ってしまう。
「おい、ニイチャン・・・俺達舐めると痛い目みるぞ、こるぁっ!?」
「うるせぇな、さっきから・・・。って言うか、アンタ達『巻き舌』上手いね。ははは♪
」
オリバーのその言葉がスイッチとなり、男の一人がオリバーの頬にパンチを入れた。
オリバーは酔っていた為、簡単に地面に倒れた。
「口の利き方教えてやるぜ、この馬鹿がぁっ!」
男達は、ひっくり返ったオリバーの体にドカドカと蹴りを入れ始めた。
周りを歩いていた僅かの人々は、自分に火の粉が降りかからないように足早に過ぎ去って
行く。
みんな見て見ぬフリだ。
「じゃ、また『いつ・ここ』行くからねぇ〜・・・バイバ〜イ♪」
朱実に見送られながら玄と安が出てきた。
表に出ると、ボコボコにされているオリバーが・・・。
「キャーーーーーーーーッ!」
朱実が叫んだ。
「何してる、やめろ!」
安がカッとして相手に殴り掛かった・・・が、安も結構アルコールが入っていたので、目
標が定まらない。
相手からの拳が、すぐに安の胃に入った。
「オエッ・・・」
安が胃を抑えて蹲(うずくま)った。
「野郎・・・」
玄もスイッチが入った。
ケンカに明け暮れた青春時代を過ごした玄と安だ・・・「怒りのスイッチ」は実は結構早い。
が、玄もアルコールが足に来ていた為、今はどうにもならなかった。
「ちょっと、やめてよ!ケンカなんかやめてってば!」
朱実が叫んだ。
「うるせぇ、オカマ!あっち行ってろ、ドブス!」
そうこうしているうちに、また男達がオリバーを弄(なぶ)りに掛かった。
「俺が言うならまだしもなぁ、アンタらに朱実さんを『ドブス』呼ばわりされるのは、ち
ょっと我慢ならねぇな・・・」
オリバーがユラユラ立ち上がった。
「いや〜ん、男らしい・・・アタシの為に・・・」
朱実はこんな時なのにトキメいている。
「ドブス」発言に全くメゲていない。
「ジャジャーーーン!『オーロラ・グリーン』・・・ここにケンザン!」
「はぁ?」
突如「オーロラ5★」のファイティング・ポーズを取ったオリバーを、男二人が笑った。
「俺、副業で『正義の味方』してんだ・・・だから、お前らをぶっ倒ぉ〜す!」
「馬鹿じゃねぇか、コイツ・・・」
男二人は益々オリバーを笑った。
そして、確かにカッコよく(?)ポーズを決めたオリバーだが、やはりかなり酔ってた。
またもや、すぐに二人組にボコボコにされてしまった。
「ちょっと!やめてって言ってんでしょ、馬鹿!アンタ達・・・アタシのオリバーの
顔殴らないでよ!それ以上殴るってんなら・・・」
朱実・・・軽くジャンプしたかと思ったら、膝をスコーンと一方の男の鼻に当てた。
見事な「飛び膝蹴り」の炸裂だ。
「てめっ・・・」
男は鼻からは勢い良く血を噴き出し、そのあまりの痛さに顔を抑えて膝を落とした。
もう一方の男が、拳を朱実に振り翳(かざ)した。
「イヤッ!野蛮な汚らしい手でアタシに触らないでよ、馬鹿!」
胃を押さえた安と、地面に転がっている玄を余所に、朱実の大立ち回りが始まった。
華麗な大技が二人の男の体を宙に浮かす。
「・・・そう言えば朱実さん、確か昔『合気道』と『空手』やってたって・・・」
玄が安に話し掛けた。
「イヤッ、馬鹿!怖〜い!あっち行ってよ!キャーッ!」
叫び声と裏腹な朱実の猛攻撃が続く。
腹を立てた男の一人が、オリバーに向かってナイフを振り翳(かざ)した。
「おいっ・・・コイツがどうなってもいいのか、オカマ・・・あぁっ!?」
オリバーはもうすっかり意識が「落ちて」しまっていた。
顔にナイフを突き立てられようが、ビビる事も無い。
ビビッたのはむしろ、朱実や安・玄の方だ。
「オラオラァ・・・さっきの威勢はどこに行ったんだ?え、オカマ野郎?」
男はオリバーの頬に、ス〜ッとナイフを滑らせた。
オリバーの頬が薄っすら切れ、血が滲んだ。
朱実の中に眠る怒りが、ゴゴゴゴと音を立てて湧き出した。
「てっめぇ・・・『俺の男』に何しやがるぁ〜!」
朱実が一気に豹変した。
漫画「北斗の拳」で主人公・ケンシロウが、怒りに身を任せ自分の服を自らが膨張させた
筋肉で破るような凄まじい怒り・・・。
朱実はドスの効いた「野太い男の声」で相手を罵倒し、ナイフを持っていた男の首筋に見
事な弧を描いて、美しい「延髄切り」を咬ました。
男は白目を剥いて、呆気無くその場に崩れた。
表の騒がしさを聞いたママやオネエサン達が、ドヤドヤと店の外に出て来た。
他の店のオネエサン達も表に出て来た。
「ママ!警察に電話して!チンピラ二人、確保!超怖かったわぁ〜・・・」
「・・・・・・・」
安と玄は朱実のあまりの変わり身の早さに言葉が出なかった。
朱実が指示を出し、チンピラ二人はまもなく滝野川警察署職員によって、パトカーに連行
された。
オリバーは、汗と涙で化粧が崩れ落ちた朱実に助け起こされ、ギュッと抱き締められた。
「ア〜ン・・・アタシのオリバーの素敵な顔に、ナイフの傷がぁ〜・・・」
オリバーはその頃、夢を見ていた。
ドンドンドン!
ドンドンドン!
「はいはい、今開けるよ・・・開けるって・・・」
玄関のドアをやたら叩く音を煩(わずら)わしく思いながら、ジェームズが鍵を開けた。
「遅かったじゃねーか、婆さん。今一体何時だと・・・うわっ、どした!?」
口の端を切った玄と胃を押さえた安が、ボロボロのオリバーを抱えて立っていた。
黒かったはずの礼服は、白く粉を吹いたようになっていた。
「悪いな、ジェームズ・・・こんな遅くに・・・」
体裁悪そうにニカッと笑った安は、玄関入ってすぐの所にオリバーの体を寝かした。
玄関がうるさくなったので何事かと思い、ネグリジェ姿にガウンを羽織っためぐみと簡単
な部屋着姿のトムも玄関に出てきた。
「よぉ、めぐみちゃん、トム・・・久しぶり!コイツ、どっか寝かせてやってくれ。俺ら
、帰るから・・・じゃな」
「え、ちょっ、まっ・・・ねぇって・・・」
慌てるジェームズを余所に、玄と安はとっとと帰って行った。
「ど、どうしたんだ、オリ婆・・・」
トムは長男の有様を見て、恐怖に慄(おのの)き固まっている。
式服は汚れてボタンが幾つか取れ、目の端や口の端を切っていたオリバー。
頬が切れて、垂れた血でシャツの襟が赤く染まっていた。
「まず、靴脱がせないと・・・おい、トム!お前は濡らしたタオル持って来い!」
「お、おう・・・」
ジェームズは、自分はオリバーの靴を脱がせ、トムに指示を出した。
「私、オリバーさんを部屋に運びますぅ〜。ジェームズさん、オリバーさんの部屋のドア
開けてくんちぇ〜」
「え、でも、めぐみちゃん・・・」
「男のオリバーを抱えられるのか?」と思ったが、無駄な心配だった。
めぐみは「ふんぬっ!」と気合の入った掛け声を出してオリバーをお姫様抱っこで抱き
抱え、濡れタオルを持って廊下でアワアワしているトムを通り過ぎ、案内役のジェームズ
の後に続いた。
トムは何をしていいものやらオロオロ迷った挙句、外の様子を確認して玄関の戸締りをした。
「明日が日曜日で良かったです〜。お店はお休みだし〜、少し寝かせてあげましょう」
めぐみは顔に掛かったオリバーの長い髪を払ってやり、トムから濡れタオルを受け取ると
、顔や首筋を汚れや血を拭いてやった。
「オロナインとか・・・いる?」
ジェームズが薬箱を持って来た。
「ありがとうございますぅ〜」
めぐみはかなり落ち着いていた。
昔、柔道部のマネージャーをしていたと言うめぐみは、こういう状態の男に慣れているの
かも知れない。
特に恥ずかしく無さそうに、とっととオリバーの汚れた服を脱がし始めた。
ジェームズとトムの方が、その行為に少し面食らった。
「っつーか・・・誰とケンカしたんだ、オリ婆は?安さんと玄さんか?」
トムがジェームズに聞いた。
「違うと思う。明日、婆さんに聞きゃ分かるだろ?」
「でも、これだけお酒が入っているんじゃ、多分覚えてないと思いますよぉ〜」
めぐみが言った事は尤もだ。
オリバーの体からは、酒の匂いがプンプン漂っていた。
めぐみに着替えさせて貰い、取り敢えずは部屋着になったオリバー・・・・・起きる気配は無い。
オリバーはその頃、まだ夢を見ていた。
誰かが泣いている・・・誰だ?
あぁ・・・「俺」か?
中学の制服を着たオリバーが膝を抱え、小さくなって震え泣いている。
そうだ・・・。
俺、本当はやりたい事が色々あったんだ。
なのに・・・。
「オリバー!明日のおべんとう何―?」
「オリバー!ダンが僕の靴履いて学校行っちゃったよぉ〜!『ペン』ってしてぇ〜」
「オリバー、明日までにこのレポートやら無きゃなたねぇんだ。ちょっと手伝ってくれよ」
「オリバー。『レインボー』は別に、潰しちまっても仕方無ぇんじゃねぇのか?」
俺・・・ホントはどれもやりたくない。
誰がどうだって・・・俺はホントはどうだっていいんだ。
俺にだって、夢はあるんだ!
やりたい事も一杯あるんだ!
俺は、みんなの「父さんでも母さん」でも無いんだっ!
場面が少し変わった。
「オリバーはエライねぇ、弟達の面倒をいつも看て」
「オリバーはいい子だねぇ、こんな若いのに、ちゃーんと弟達を育てて」
「君は立派だな。勿論、お母さんの残した店の跡を継ぐんだろ?」
「料理はするし、洗濯もこなすし、掃除も出来るし・・・『カノジョ』なんか要らないよ
な、オリバーは?はははは!」
・・・冗談じゃ無い・・・。
俺は立派でも何でもない・・・ホントはもっと「普通」なんだ・・・。
我が儘だって言いたいよ・・・ズル休みだってしたいよ・・・。
俺に相談なんかやめてくれよ・・・・・俺の方が誰かに相談したいよ・・・・・。
ダニエルはどうしてあんなにルパートを追っかけるんだ?
ルパートは一体何考えて生きてんだ?
トムは退学になりそうなんだ・・・・・どうして教師に目を付けられるような事ばかりするんだ?
ジェームズ・・・・・アイツは世渡り上手だ・・・・羨ましいよ・・・・・。
誰か助けてくれよ・・・。
俺には荷が重いんだ・・・。
父さん・・・母さん・・・。
俺はみんなの父親なんかじゃない・・・母親なんかじゃない。
俺はもっと自由で居たいんだ・・・自由が欲しいんだ。
自分の時間がもっと欲しい・・・。
ホントはもっと遊びたいし・・・部活だってやりたい・・・就職だって・・・。
また場面が変わった。
オリバーさん。
オリバーさん。
・・・誰だ?
オリバーさん。
長い髪・・・?
痩せてて・・・色が白い・・・。
誰だ?
オリバーさん。
・・・魔子ちゃん?
「杉じいは梅さんがずっと好きだったんだ」
「もう一度、梅さんの庭を弄りたいって・・・」
「こらーっ、ボウズ!俺の芸術に何しやがるっ!」
「オリバー・・・あの理事長には気を付けろ。アイツはカタギなんかじゃねぇよ」
ねぇよ・・・。
ねぇよ・・・。
ねぇよ・・・。
「な、な、何じゃこりゃ〜!?」
次の日、トイレに行って手を洗う為に洗面所に向かったオリバーは、鏡に写った自分の顔
の酷い有様に驚き、大声を発した。
顔中にバンソウコウ・・・瞼が切れているらしく、目が片方腫れている。
いや・・・顔中がパンパンだ。
「俺・・・何事!?」
自分の顔を、信じられないように触り捲くっているオリバー。
頭がガンガンと重い。
何だか、夢を見ていたような気がする。
長い長い夢・・・色々な人が出て来た気がした。
「う〜・・・マジ、頭痛ぇ〜・・・」
「あ、お早うございますぅ〜」
後ろからめぐみが現れた。
「洗濯終わってますね?どぉ〜れ、よっこらしゃーのしゃ!」
脱水機の中の洗濯物を、纏めてガサッと篭に入れためぐみ。
「いいお天気ですよ〜、外。春もすぐそこまで来てますね〜」
「ねぇ・・・俺、一体どうしたの?あれ・・・今何時!?」
オリバーが青い顔になった。
「今日は日曜日ですよぉ、オリバーさ〜ん。ちなみに今は昼の一時です〜。傷の事は私ら
はな〜んも知りませ〜ん。玄さんと安さんがオリバーさんを連れて帰って来たんで〜」
「・・・安さんと玄さん?」
オリバーはズキズキする頭を抱え、記憶の糸を辿った。
頭の回転は頗(すこぶ)る鈍く、すぐには何も考えられなかった。
そうだ・・・確か、「杉造の葬式」に横浜まで行った。
そして帰りに・・・そうだ、「朱実の店」に寄って・・・。
「・・・家の中が静かだけど、ルパートとダニエルは?」
「二人は小林君と外に遊びに行っちゃいましたよ〜」
「そう・・・」
頭も瞼も依然重い・・・。
「何か少し召し上がりますかぁ、オリバーさ〜ん?」
「ん〜・・・味噌汁が飲みたいかも」
オリバーはボサボサの頭をガリガリ掻いた。
「朝のでいいなら少し残ってますよ〜。今、洗濯だけ干したら用意しますからね〜」
「・・・ありがとう」
居間に行き、点けっ放しになっていたテレビをボーッと見つめながら、オリバーは昨日の
記憶をもう少し辿った。
横浜のお通夜に出向き、玄と安と早めに斎場から帰って来て「朱実」の店に行った。
で、ビールを飲んだ。
「イテ・・・」
オリバーはヒリッとした感覚を頬に覚え、顔を撫で回した。
バンソウコウを剥がしてみると、5センチほど薄っすら頬の皮が切れていた。
「コワッ・・・何で『こんな事』になってんだ?って言うか、こんなになってんのに、俺
どうして記憶が無いんだ?」
「よ!起きたかぃ、『ハンサム兄貴』?」
ジェームズが脇に袋を抱えて居間に現れた。
「ハンサム兄貴」・・・勿論、ジェームズ流の「兄を嘲笑ったジョーク」だ。
オリバーの顔の傷があまりに酷いので、敢えてそう呼んだジェームズだ。
「どこ行ってたんだ、お前?」
「本屋・・・それとクリーニング屋。アンタの式服出して来た」
「あ、悪い・・・。なぁ、俺、昨日どうやって帰って来た?」
「玄さんと安さんがキミを抱えて帰って来たのだよ。俺らも何が何だか分からん。後で『
いつ・ここ』にでも行ってみたらいーんじゃね?あ、めぐみちゃん、俺にも味噌汁頂戴♪」
「はい〜」
お盆にオリバー用の味噌汁を持って現れためぐみにジェームズが催促した。
めぐみはジェームズのお椀とは別に、もう一つ椀も持ってきた・・・「自分の分」らしい。
昼食は食べたはずの二人なのに、オリバーと一緒になって味噌汁を飲んでいる。
「・・・・・」
オリバーは何だか自分が「浦島太郎」になったような気分だった。
何百年も現世を離れて、浮世生活をしていたような錯覚・・・何が何だか意味が分からない。
それでもオリバーは、ジェームズの言う通り、暫くして「いつ・ここ」に向かった。
そして「事の真相」を知り、情け無い飲み方をしてしまった自分を恥じて心底落ち込んだ。
中学は卒業式の日を迎えた。
ダニエルは「在校生に残す言葉」をかなりドモりながら述べ、卒業式に「笑い」を添えた。
「だから僕、ホントは嫌だったんだ・・・//////」
ダニエルは式から帰ってから、「レインボー」のカウンターでブツブツ文句を言っていた。
「確かにアレは笑ったわ。おかげで、卒業式だってのに先生に叱られたのよ、私。全く冗
談じゃないわよ!あ、オリバー、おかわり♪」
レインボーに遊びに来ていたエマがブーブー文句を垂れた。
遠慮する事無く、二回目のロイヤル・ミルクティーをカウンターの中に催促する。
オリバーはエマの手前、ダニエルにだけ「ダメ出し」を言えず、ダニエルにもカフェ・オ
レのおかわりをやった。
「その制服のエマちゃん、可愛かったよね。春からはブレザーになっちゃうモンね?」
オリバーが聞いた。
彼の顔にはまだ切り傷の痕があったが、ほぼ元通り完治している。
あれきり、恥ずかしくて朱実の店の側は通っていなかったオリバー。
醜態を晒(さら)していたので、今まで以上に気が向かない・・・酒も断っていた。
朱実に対し、礼と侘びをしなくてはいけないと思っていても、なかなかオリバーの重い腰
は上がらなかった。
一方、エマは大好きなオリバーから「可愛い」と言われ、天にも昇る気持ちだ。
「そう言えば、明日なんでしょ?ジェームズの店の開店って」
エマは情報を仕入れていた。
「うん、ここ数日、帰って来るのが毎日終電の時間だよ」
「『トレビア〜ン♪』って雑誌でも取り上げられたわ。イタリアンの店なの?」
「いンえ〜・・・トレビア〜ンはヨーロッパ全般の料理を扱うみたいですよ〜。ジェーム
ズさんはそう言ってました〜。今はワインの勉強もしているみたいです〜」
「ふ〜ん」
エマは『ジェームズ』の詳しい情報には興味が無かった。
同じ顔をしていても、オリバーへ感じる魅力をジェームズには全く感じていなかったエマだ。
カラ〜ン♪
レオンハルトがゾフィーを伴って店に現れた。
「こんにちは、みなさん。トム君はご在宅ですか?」
「いや・・・ども、ゾフィーちゃん」
オリバーが挨拶すると、ゾフィーは「ジョワッ!」とポーズを取ってオリバーに応えた
。
「・・・・・」
どうやらゾフィーは、ダニエルとルパートに馬鹿げた嘘を教えられたようで、日本人同士
の仲良しの挨拶がソレだと習っていたらしい。
ダニエルはゾフィーに応え、「ジョワッ!」を返していた。
「では、めぐみさん・・・トム君にお伝え願えますか?」
「何ですかぁ〜?」
「水道橋の『ラ・クーア』のチケットが四枚ありまして・・・。ゾフィーが来週末ドイツ
に帰ると言うので、良かったら、最後の思い出にトム君とめぐみさんを誘って、四人で遊
びに行かないかなと・・・」
「え〜・・・僕も『ラ・クーア』行きた〜い!」
「あ、私も♪」
ダニエルとエマが話に入って来た。
「こら・・・レオンハルトが困る事を言うな!」
オリバーに叱られたので、ダニエルもエマも(エマは大好きなオリバーに言われたから)諦
めた。
「ゾフィーちゃん帰るんですか〜、いよいよ〜?」
めぐみが聞くと、ゾフィーはどこまで分かっているかは分からないが、「ヤー」と、英語
で言う所の「イエス」のニュアンスの言葉を返した。
「明後日の日曜日、朝十時に迎えに来ます。用意しておいてください。では、今日はこれ
で・・・。あ、キッド、今日卒業式だったね。はい、コレ・・・欲しがっていたモノ。お
めでとう★」
「わっ!ありがとう、レオンハルト君♪」
ダニエルは卒業祝いに、なぜか「痴漢避けの防犯ブザー」を貰った。
「・・・何する気だ、それ?」
オリバーが不思議そうな顔で覗き込んだ。
「『ルパート用』だよ。何だか最近、ほら・・・益々可愛さが増して来てるだろ?危険だ
からね」
「・・・お前、自分の卒業祝いに『ルパートが使うモノ』を貰ったのか?」
オリバーは信じられない。
「優しいですね〜、ダニエルさ〜ん」
めぐみは目を細めた。
「馬鹿なだけよ」
エマだ。
「キッドの考えに便乗して、僕もめぐみさん用と一応トム君用を用意しました」
「え・・・?」
オリバーは益々信じられない。
エマも「ゲッ」と言う顔付きだ。
「素敵なあなた方に何かが起こらないように・・・まぁ、『お守り』とでも思ってください」
「ありがとうございますぅ〜、レオンハルトさ〜ん。大切にします〜!トムさんにもちゃ
〜んと渡しておきますね〜」
「はい、そうしてください。ゾフィーにもお揃いで買ったんです。僕、実は彼女にプレゼ
ントを上げた事がなかったので・・・喜んでいるようです」
「ヤー♪」
ゾフィーが自分のブザーをみんなに見せた。
「・・・もし、ドイツで鳴らした場合、どうやってお前助けに行くんだ?」
オリバーが聞いた。
「ゾフィーは護身術を習っているので、実際は強いのです。が、やはり彼女も女性・・・
こういうモノを貰うと嬉しいようで・・・」
「・・・そんなモンかね?」
オリバーは肩をヒョイとあげた。
数日後・・・オリバーは朱実の居る店、「倶楽部・パラダイス」を訪ねた。
あのまま、事を放って置く訳にはいかないと思っていたからだ。
「やぁ〜ん、久しぶり〜、オリバー♪良かったぁ、傷残らなくて・・・。アタシ心配だ
ったんだけど、何だか怖くて様子見にいけなくて・・・え、何?」
オリバーが朱実に「痴漢避けの防犯ブザー」を渡した。
「・・・お礼って言うか、お詫びって言うか、お騒がせって言うか・・・。でも、その・
・・女性はこういうの貰うと、『守られている』みたいで嬉しいって友達から聞いたから
・・・。朱実さんもこういうの嬉しいかなって・・・」
ボソボソ喋るオリバーにダイビングした朱実。
「どうしよ・・・すっごく嬉しい♪ねぇ、キスしていい?」
「ダメ」
オリバーの気持ちは「ストレート」なままだ。
朱実を突き放し、自分の唇を守った。
「ま・・・いいわ。こんな嬉しい事されちゃって、アタシ愛されてるって感じるし〜♪」
「良かったわねぇ、朱実〜」
孝夫ママが、涙ぐむ朱実の肩を抱いた。
「これからもこの子の事よろしくね、オリバー」
「・・・はぁ」
そうとしか答えられなかったオリバーだ。
別に・・・朱実の事は全然愛していなかった。
「え、と・・・じゃ、俺、今日は帰ります」
「うん。また会いに来てね〜♪アタシも行くし〜♪」
「・・・・・」
オリバーは無言で「パラダイス」を後にした。
空を見上げた。
ポケットに手を突っ込んだオリバー。
ブザーがもう一つ入っていた。
ふと・・・「魔子」を思った。
海藤魔子・・・ヴォルデモートの姪で、少し前にレインボーのバイトをしていた女の子だ。
誤解をしたまま、自分の方から突き放してしまった女の子・・・。
「いつか・・・」
このブザーを魔子にやりたいと思った。
そう思って買ったブザーだ。
「杉じいは死ぬまで梅さんを好きだった」・・・。
どこでどう過ごしているか分からない魔子。
だが、オリバーの方は彼女を忘れないでいようと思った。
いい子だった。
優しくて健気で・・・。
ビィィィィィーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!
「おわっ・・・」
どこからか途轍もない音が響いた・・・辺りをキョロキョロしたオリバー。
「ダメだよ、ルパート・・・これは『何か遭った場合だけ』引っ張るんだ」
「あ、そっか・・・えへへ////」
向こうでダニエルとルパートがブザーで遊んでいた。
なぜか、こんな所をウロウロしていたようだ。
「全くはた迷惑なヤツ等だ・・・」
と思ったが、気が付けば末弟のダニエルも、今年の春には高校生になる。
両親が居なくなって、手探りでやってきた家事や家計や両親代わり・・・。
やりたい事は沢山あったが、それでもこんなに遣り甲斐のあった数年間はなかった。
「俺って・・・うん、ちょっとカッコいいよな・・・?」
オリバーは自分の境遇を鼻で笑って、ブザーをもう一度ポケットにしまった。
「あの・・・」
後ろから誰かに声を掛けられた。
このタイミングで、儚げなこの声・・・。
ま、まさか・・・魔・・・。
「『新庚申塚』ってこの辺でいいんでしょうか?」
「・・・はぁ」
知らない三人の女の子達だった。
「商店街の裏に引っ越して来た者なんですが、ちょっと散策したら道に迷ってしまって・
・・。あの・・・私達の家はどこでしょう?」
「・・・え、あなた方の家?さぁ・・・」
不思議な三姉妹だ・・・しかも、物凄い美人三姉妹でもある。
だが・・・何と言うか・・・。
「ええと・・・住所はどこになります?『商店街』って言うと、俺ん家の近くだと思うん
ですけど・・・。良かったら途中まで送りましょうか?」
「家は、『5−3−1』って言う住所です」
一番身長の高い女が答えた。
5−3−1・・・池照家のすぐ隣の住所だ。
「そう言えば、さっき引越しの車が・・・じゃあ、あれ・・・」
「まぁ・・・『お隣さん』でしたか?先ほどご挨拶に伺ったんですが、どなたもいらっし
ゃらなかったもので・・・。申し送れました。私達『温田』と言います」
「良かったわね、お姉さん?こんな素敵な方がお隣さんだなんて・・・」
「私、引っ越して来て良かったわ」
次女らしき女と三女らしき女が、共に儚げに笑った。
「温かい田んぼ」・・・。
名前は暖かだが、何ともヒンヤリする雰囲気を醸し出す三人だ。
そう・・・何だか、ビジュアルが三人揃って「雪女」だ。
春・・・。
色々なものが変化する季節。
池照家に、また「新しい風」を呼び込みそうな三姉妹がやって来た。
第十六話完結 第十七話に続く オーロラ目次へ トップページへ