ハリーは今「過去」の中に居た。
「スネイプの記憶の中」と言うのが正しい。
セブルス・スネイプは死んだ。
蛇によって死を齎(もたら)された彼だが、元を正せば・・・「主」と呼んだ男の手の手に係
って殺されたと言って良い。
結局、ヴォルデモート卿と言う男は誰をも信用していなかったし誰をも必要としていない。
自己中心的で、自分の事しか愛せない男だ。
スネイプが長きに渡り、表向きは誰の目にもヴォルデモートの忠実な腹心の部下で右腕だっ
たとしても、一たび悪の帝王にとって邪魔な存在になったならば、この世から排除されるの
だ。
冷徹且つ残忍な男でしかなかったヴォルデモート。
「セブルス・スネイプが存在する限り、ニワトコの杖は俺様に服従する事は無い」と判断さ
れたのだ。
スネイプは、ヴォルデモートの唯一愛でる存在である蛇のナギニによって始末された。
ある意味、スネイプの事を可哀想だとハリーは思った。
気の毒だとも思った。
懸命に「仕事」をしても、最終的には邪魔者扱いだ。
その存在を認められ無かったに等しい。
思えば、その点スネイプに取っては不服だろうが、あの「ワームテール」と同類であろう。
自分以外の存在は唯単に「駒」としか見ない、悪魔と契約を交わした冷酷な男には「例外」
は無い。
愛を知らない・・・友情を知らない・・・信頼を知らないトム・リドル。
「アルバス・ダンブルドアを殺した男」は、最後「ダンブルドアの息の根を止めた魔法使い
」としてご主人様に疎まれ、「厄介な存在」として末梢されたのだ。
ハリーは骸(むくろ)となったスネイプを、ただ見つめた。
見つめた「だけ」がハリーの感情の全てだった。
それ以上でもそれ以下でも無く、ただ単に「スネイプの死を死と捉えた」だけに過ぎない。
ハリーにとっては結局、ダンブルドアを殺した男の最期を自分の手で下したか宿敵に殺され
たかだけの違いでしか無かった。
大体、ハリー自身が今パンク寸前だった。
ヴォルデモートはスネイプを殺した後、不意に「一時間の猶予」をこちら側に提供して来た。
ハリーだけを森へ誘い、この戦いで死んでいった勇敢で不幸な者達を弔う時間を与えて来た。
しかし・・・それには「おまけ」が付く。
「一時間を超えたからには容赦は無い」と。
「女子供関係無く全て殺す」と。
ハリーは次の作戦を考えなくてはイケナイ。
最後に残った分霊箱が、蛇の「ナギニ」だと気付いてしまった。
あの蛇を殺さなくては、ヴォルデモートを闇に葬り去る事は出来ない。
大広間に戻ったハリーとロンとハーマイオニー。
三人が目にしたのは、威厳ある風合いに満ちたはずの大広間の散々たる様子だった。
窓ガラスが全て割れ、天井が半壊し、柱は大きく破損していた。
瓦礫の山があちこちに存在して、その中に生存者が固まって身を寄せ合っている。
この大広間では、幾度となくダンブルドアからの愉快で不思議な啓示を聞いたし、楽しい会
食をした。
数々のイベントも全てここで行われ、ハリーがこの学園で好きな部屋の一つだ。
そこが今、元の姿を残さない程の悲惨な状態に様変わりしている。
大広間を動き回っている者はみんな一様にどこか傷付き、酷い怪我をしている者を介抱した
り、もう動かなくなってしまった者に対し死への手向(たむ)けを施しをしてやっていた。
死体の中には勿論、アーサー・ウィーズリーの姿があった。
先程、ハリー達の目の前で命を落としたアーサーは家族全員に囲まれていた。
嘆き悲しむ家族の中、唯一涼しい顔をしているのがアーサー本人だ。
その様は何だか不思議だ。
もがき苦しむ生存者と同じ空間に居るのに、息をしていない人間はその苦しみから早くも「出てしまって」いた。
しかもアーサーは静かに目を閉じ、どこか笑っているようにも感じられる。
ハリーが今まで見た事の無い沈んだウィーズリー家の姿がそこにあった。
ロンは家族を見付けると、冷たくなった父親の屍に抱き付いた。
激しく嗚咽を上げ、顔を父親の胸に突っ伏して泣くロン。
ハーマイオニーは、涙でグショグショのジニーを抱き締めている。
ハリーが大好きなジニーの長い髪はチリチリと焦げた跡があり、長さが半分にまで短くなっ
てしまっていた。
髪を乱し、数時間のうちに大きく歳を取ってしまったような表情のモリーの事を、ビルやパ
ーシーが抱きしている。
側に侍(はべ)っている双子も、通常なら考えられないような真面目で真剣な表情だった。
ハリーは目を逸らせた・・・見て居られなかった。
他に這わすと・・・あぁ、何と言う事か。
新婚で、しかも子供が生まれたばかりのルーピンとトンクスの亡き骸が仲良く横たわってい
る。
「っ・・・」
鼻の奥がギリッと痛み、目頭が熱くなった。
ハリーはそこに居る事がいよいよ難しくなった。
こんな事って・・・無い。
こんな事って・・・。
・・・辛過ぎる。
打ちひしがれた気持ちは、すぐ膝に来た。
ハリーは少し体がヨロケた。
大好きな人の死がここには有り過ぎた。
ヴォルデモートは言う。
「自ら戦おうとせぬお前のせいで、その者達は死んだのだ」と。
悔しい・・・。
だが、確かにそうだ。
ハリーは学校に戻って来てからというもの、ロンとハーマイオニーと「分霊箱」探しに奔走
し、破壊する事に専念していた。
分霊箱が一つでも残っていてはヴォルデモートの息の根は止められない。
ハリー達が行っていた事はとても重要である。
だが・・・その結果がこれだ。
多くの命が死食い人によって奪われて行ったのだ。
ハリーは向こうに小さな死体を見つけた。
コリン・クリービーだ。
思い出す。
ハリーの事をスターか何かと勘違いして、写真を撮ったり握手を求めて来た、当時一年生だ
ったコリン。
ハリーはその存在を煙たく感じ、随分彼から逃げ回った。
が、今にして思えば・・・コリンは健気で可愛い奴では無かったか?
少し先にはラベンダーの死体がある。
去年ハリーやハーマイオニーをあんなに散々イラ付かせ、公衆の面前で憚りも無くロンと熱
烈なキスをしてたラベンダー・・・。
今は瞬き一つしない。
心が壊れてしまいたいとハリーは思った。
これは何だ?
何なのだ?
何が起こってしまったのだ?
ここから逃げ出したい・・・現実から去ってしまいたい・・・。
自分は腹が空いたはずだ。
ウィーズリー家で、モリーの作ったシチューを食べたのはいつだったか?
温かい風呂に浸かり、柔らかなベッドで時間の許す限り眠りたい。
双子のし掛ける悪戯を避けながら、ロンと他愛も無い話に華を咲かせ、ハーマイオニーの辛
辣な視線を浴びるのも悪く無い。
そして・・・傍らにジニーが微笑んでくれてさえいれば・・・。
有り触れた「日常」が今は遠い世界の夢の中のようだ。
現実は体の節々が痛いし、疲れたし、心がボロボロだ。
助けて欲しい人はもうこの世に居なく、支えて欲しい人もこの世には居ない。
ハリーは誰かに頼って弱音を吐く事さえも出来ないのだ。
ダンブルドアがハリーに託した事はあまりに多く、この戦いで失ったモノはあまりに多い。
「リーマスとトンクスは・・・ち、小さな子達を守って死んだの。わ、私のすぐ横で・・・
二人が・・・二人が死食い人十人に囲まれて一斉に・・・。私・・・」
「自分を責めないで、ジニー。誰のせいでも無いのよ」
「悔しい・・・悔しいわ、ハーマイオニー・・」
ジニーが動かない父親を見つめ、涙をボロボロ溢しながら床をバンバンと叩いた。
普段は強く、男のハリーから見てもカッコいいジニーが、今は自分の力の及ばない出来事に
歯噛みし、自責の念で涙を流している。
ハリーの胃の中に、ドシッと鉛が落ちて来たようだった。
無理だ・・・ここには居られない。
ジニーの流す涙が、ハリーの胃に在るモノと良く似ていたからかも知れない。
心の中にしまいこんでいるモノが目の前に提示させられたようで、ハリーは慌てた。
そしてハリーは、色々な重圧や責任・悲しみと虚無から逃げるように校長室に歩を進め、誰
か他の人間の・・・それが例えスネイプであろうとも自分の頭の中よりは幾分もマシだと思
える存在の中に逃げ込むように、憂いの篩に頭を突っ込んだ。
思えば、ハリーはこの一年ずっとスネイプを殺したいと思っていた。
偉大な魔法使いを一人死に至らしめるのは、どんな罪より重いと思っていた。
そして、旅をしている間に芽生えたダンブルドアへの疑念が生まれる前までは、唯一自分の
理解者で相談役と言えるダンブルドアを殺した男には、それ相当の死が相応しいと思っていた。
だから実際、本当にスネイプの死する時にたまたま自分が近くに居合わせていても彼を助け
ようと飛び出しはしなかったし、ロンやハーマイオニーと共に黙って「事が終わるまで」息
を潜めていた。
セブルス・スネイプと言う男の死に対して悲しい気持ちにはなれなかった。
改めて思い返してみても・・・一つだって彼に対し良い想い出や印象は無い。
ドリルのように捩じ込んで来る独特の視線と厭味な言葉、理不尽な個人攻撃と言える罰則と
父親に対する中傷・・・そんな事ばっかりだ。
だから、悲しい気持ちになんかなる訳無いのだ。
しかし・・・。
それでもハリーは心が重く沈んでいる。
胃がつっかえ、喉が熱い。
・・・どうしてだろう?
不思議な感情が今ハリーを取り撒いていた。
殺してやりたいほど憎んだ男の死のはずなのに、こんなにも後味が悪いのはなぜなのだろう?
初めてスネイプに会った時・・・ハリーが十一歳になりホグワーツに初めてやって来たあの
日の夜の晩さん会での時・・・。
組分け帽子でグリフィンドール寮に選ばれたハリーを、独特の冷たい目で壇上から見つめた
スネイプ。
ハリーは直感でスネイプを嫌った。
「こいつは僕のこれからの学園生活の中で、尽く敵対して行く人物になるであろう」と。
初めて会ったにも係わらず、あんなに誰かに敵意を剥き出されたのは初めてだった。
初めて会ったにも係わらず、あんなに誰かに憎しみを抱かれたのも初めてだった。
五年生の時ハリーはダンブルドアの命令で、スネイプから「閉心術」を学ぶ事を余儀なくさ
れた。
その時、不意に一瞬スネイプの心の中に入り込んでしまい、彼が心の奥にしまっていた秘密
を知ってしまった事がある。
父親ジェームズやシリウス達の学生時代の品の無い言動や、母親リリーに対するスネイプの
気持ちを少し垣間見たハリー。
俄かに信じられない事が当時起きていたらしい。
「ジェームズの素晴らしさ」を語られて疑う事無くそう思い込んでいたハリーに、違った面
を見せてくれた結果になったスネイプの記憶・・・。
父親の愚かさと、父親への対する今までのハリーの気持ちが崩れた瞬間でもある。
ダンブルドアにしても・・・それは然りだ。
だからと言って、スネイプと言う男を推進する気持ちにはなれない。
セブルス・スネイプがどういう男なのかは、ハリーは昨年までの学生時代で知りつくしている。
「あいつは結局、人を一人殺した男だ。ダンブルドアを殺した男なんだ。ダンブルドアはあ
いつの本心を、結局最後まで探り切れ無かったんだ。あいつはそれに、ジョージの耳も吹き
飛ばした。あいつは結局そういう奴だ。ダンブルドアは騙されていたんだ」
憂いの篩は、部屋の主が居なくともハリーに反応してくれた。
スネイプの残した「想い」は水盤の中にマーブル模様を描きながら混ざり合い、ハリーはそ
の中に顔を突っ込んだ。
憂いの篩の中で起こる様々なスネイプに関する出来事。
リリーと過ごした幼き日の優しい想い出、ホグワーツでからかわれ続ける惨めな生活、悪の
組織に加担するまでの経路・・・。
あるシーンになった。
「さて、セブルス?ヴォルデモート卿がわしに何の伝言かな?」
在りし日のダンブルドアが感情を出さない顔でスネイプに問い質している。
「私は・・・警告に来た。いや、お願いがあって・・・どうか、リリーをお救いください」
水晶の知らせる予言に反応したヴォルデモートが、自分の命を危ぶむ存在として「七月生ま
れのハリー」をそうであると断定した動きをしていた。
スネイプは想い人の命を救いたかったのだ。
「既にリリーには夫と子がおる。ではリリー以外の二人はどうなっても良いと?見下げ果て
た奴じゃ」
「では、全員を隠してください」
しかし結果は・・・。
スネイプの嘆願虚しく、リリーは夫と共にヴォルデモートから死の呪文を食らい絶命した。
ジェームズが友人の一人、ピーター・ペテュグリューを信用した為に起きた惨事だ。
それでもスネイプはダンブルドアに怒りをぶつけた。
「リリーの子は生きておる。その男の子は彼女の目を持っておる。彼女の目も形も・・・お
主は無論覚えておるじゃろうな?」
「やめてくれ!」
スネイプが大声を上げた。
「だから何だと言うんだ!もう死んでしまった・・・もうあの人は居ない・・・」
スネイプは打ちひしがれて壁に寄り掛かっていた。
「一つ気になる事があるのじゃが、セブルス?」
ズタズタになっているスネイプに、ダンブルドアが詰め寄るシーンになった。
「不躾な質問じゃ。お主は死食い人となってから・・・一度もゴドリックの二人の住まいを
訪れてはいまいか?」
「何が言いたいのです?」
「わしの勘違いなら忘れて欲しいのじゃが、お主は一度リリーをかの地に訪ねてはおらなん
だか?」
「・・・・・」
「わしが言いたい事が分かったようじゃな?つまり、ひょっとしてハリーは・・・」
不思議な事が起こった。
ハリーはその現象を知っている。
「記憶の改ざん」が行われたのだ。
スネイプは何か・・・誰にも知られたくない一つの記憶を持っている。
ボンヤリしたおぼろげなシーンは後に終わり、スネイプは今後ダンブルドアの側で仕事をす
るようにと約束させられているシーンへと変わった。
そして・・・。
後半はハリーがなぜ稲妻形の傷を額に拵え蛇語を話し、ヴォルデモートの心が分かるのかの
衝撃の秘密が解き明かされる結果で終わる。
ハリーは水盤から顔を上げた。
過去と現実が交差し、たった今同じ部屋で話していたはずのダンブルドアとスネイプの姿が
無い事も不思議だったし、自分の存在意義のある種「笑えるような運命」に震えと涙を覚えた。
僕は・・・生きていてはいけない人間だったんだ。
セブルス・スネイプは・・・確かに気の毒な男であった。
ジェームズよりもっとずっと早くからリリーを好きだった彼は、リリーの為だけに生き、
リリーの為だけにダンブルドアの命令に従いヴォルデモートの側に侍(はべ)り、自分の感情
をひたすら押し殺して生きた「義」の人生だった。
ハリーは改ざんされた記憶の事などに大した気を止めなかった。
ハリーは焦点の定まらない虚ろな目でボンヤリと考えていた。
僕とスネイプ・・・どちらがより気の毒なヤツなのだろうか?と。
そして、不憫な自分達の事が突然可笑しくなり、自嘲気味に笑い声を上げてしまった。
が、突然起こった笑いは引っ込む時も突然で、変わりにあまりに悲しく、あまりに寒々しい
空虚な思いに取りつかれた。
・・・・・僕は死ななくてはいけない。
ハリーは自分の体を抱き締めるように両手でスッポリと肩を覆い、暫し校長室の床にしゃが
み込んで立ち上がらなかった。
トクトクと心臓が鳴る音を感じた。
命の脈動だ・・・。
この心臓はまだ「生きたい」とハリーの中で脈打つ。
ハリーは動かず居た。
校長室に入った時、始めは額の中に一人も歴代の校長が残っていない事にガッカリしたが、
今はそれで良かったと思った。
誰に相談すればいいのだ、こんな事?
答えは自分しか持っていないのに。
ハリーはゆっくりと立ち上がり、校長室を後にした。
いち早く校長室の肖像画の額縁の中に戻ったダンブルドアの存在に、ハリーは気付かなかった。
淡いブルーの優しい目は、一世一代の決断をしてそれに挑もうとしている「運命の少年」の
後姿を、悲しく静かな眼差しで見送っていた。